― 宮沢賢治の風 ― 雨にも負けずの宮沢賢治の心と身体でみずみずしい子育てを
という、たぐい稀な奥深いブログがある。
筆者である方城渉氏は修行好きと言う。
「宮沢賢治を通して親への提言」を目的にした方城氏のブログは、それぞれのテーマに対して、独特な切り口や考え方を展開し、実に深いところへ迫っているので、ぜひ参考にされたい。
「不登校・登校拒否 」というテーマを方城氏が先日ブログで取り上げた。
切実な問題だけにぼくもコメントを寄せたが、他のコメンテーターからも実に意義のあるコメントがぞくぞくと寄せらた。
中でも現役小学校の先生、ヨコ先生のコメントは、実践の中にある経験談であり説得力がある。
こういった充実したコメントによるセッションは、なかなかないので、ぜひ紹介させていただきたい。
ぜひ皆さんも考えてみてください。
http://kenjinokaze.livedoor.biz/archives/50573191.html?1143506120
寄せられたコメントは、不登校・登校拒否の賛否を問うなどという低次元なものではなく、それぞれのコメンテーターによる熟考されたい考えであるということが、このブログの存在をより意味のあるものにしている。
不登校・登校拒否においては、さまざまな理由や原因、そこにある状況などが複雑に絡んでいるので、一概には賛否できない。
子供が不登校・登校拒否になった場合、親はまず何を考えるべきだろうか?
なぜか原因を考える?
どうやって学校に行かせるべきか?
学校に行かせるべきか、否か?
転校させる?
こんなことがまずは頭に浮かぶが、実はこんな単純なものではない。
原因は、教育現場である場合、親である場合、周囲の友達である場合、本人に問題がある場合とがある。
もし原因が親であった場合、これは一番厄介だ。
本人に問題がある場合においても、実はその問題の原因の根底には「親」の存在や影響があるに違いない。
それを防ぎたいがために、ぼくも方城氏も一生懸命ブログを書くことに勢を出しているわけだ。
どうやって学校に行かせるべきか?
いや単純に「行かせりゃいい」というわけではない。本人が学校に行ってくれてば、親や先生はほっとするだろうが、それは根本的な問題の解決にはならない。
学校に行かせるべきか否か?
問題は「行かせるか行かせる否か」という二者択一ではない。その選択は、その状況をうまく親が見極めるということが大前提だ。
転校させる?
親や本人に問題があるのであれば、どこへ行っても状況は変わらない。
根本的な問題を直視せず、逃げるような方法であっては、本人にとっての将来性に何らいいことはない。
もうひとつ考えなければならないことがある。
「学校へ行かない子供たちは家で何をしているか」という点だ。
一日何もせずボーとしていたり、ゲームなどで過ごすような生活では、家にいる意味はない。それでは、何の解決にもならなければ進歩もしない。
それなら学校へ行かせて、試練の中で鍛えられ強くなるということの方がはるかに得策だ。
家にいる方が、がんがん勉強できる、がんがん自分の才能を磨ける、なんらかの才能を伸ばすことができる、のであれば、不登校・登校拒否する意味もあろう。
もっとも、そういうことを子供にさせることのできる親に育てられた子供たちや、そういうことができたり、そういう意識を持ちうる子供たちが、果たして不登校・登校拒否にはなったりするだろうか?
「不登校・登校拒否」は学校や社会の犠牲者だと、単純に第三者の責任転嫁をすることには疑問がある。
どちらかというと、親の教育方法や教育理念による犠牲者、いやそういう意識さえない親たちの犠牲者という方が、ぼく的にはしっくりくるのだがどうだろうか?

