2006年12月23日

Merry Christmas !

「サンタさん、ことしもきてくれるかな?」
「サンタさんて、なんでわたしの私のほしいものわかるのかな?」
「サンタさんて、どこにいるのかな?」
「サンタさんて、夏はどうしているのかな?」
「エントツないのに、ドアから入ってくるのかな?」
「サンタさんて、何才まできてくれるのかな?」
 
 子供たちの思いは様々だ。 
 毎年クリスマスシーズンになると、決まってアニメでサンタクロースを扱った番組がある。
一見面白いが、親がサンタになって家族サービスに奮闘する場面では、子供たちに、「サンタはお父さん?」という疑問を抱かせ、親をはらはらさせるものだ。子供の夢を壊す感があり、結構投書がテレビ局に送られるそうである。
 サンタクロースは、色々な小説やまんが、ドラマなどにも登場する。
 優しいサンタクロース、ドジなサンタクロース、動物のサンタクロース。
「サンタクロースって何人いるの?」
「動物にもサンタクロースっているんだ?」
子供たちはいつも疑問だらけだが、たくさんの疑問を抱くということは、子供たちの脳が活発に働いているという証拠だ。疑問や好奇心があるからこそ、たくさんの新しい発想を創り出すことができるのだから、いろいろなことに疑問を持って、いろいろなことを考えてほしいものである。

 さてはて、サンタクロースは本当にいるのだろうか?
 この点について、皆さんはどう考え、どう子供たちに伝えてあげているのだろうか?
 ぼくの娘たち、すくすく育って、今や高校生。
「今年はサンタに何頼むの?」と母親。
「う〜ん、でもさサンタの助手が、資金難だって言ってたじゃん」
「・・・」
とかなんとか話をしている。うむ、確かにサンタはかなり資金難だがや。
 果たして高校生になって親子でサンタの話など下らないだろうか?

 僕たちが本当に困った時、意外な他人が、意外な協力をしてくれて救われるなんてことがある。それはまさに、季節を越えたサンタクロースの温かい救いのプレゼントであるかの如くである。それって、サンタさんの贈り物って考えたらどうだろうか?
そんな角度でものごとをとらえ、見つめてみると、もちろんサンタは現実的なものではないかもしれないけれども、メルヘン的な夢を見たり信じることも忘れてはならないことじゃないだろうか?
だから僕は、当然サンタを信じる派である。ぼくの考えを受け継ぐ子供たち、どうやらそんな考え方を育んでくれているようだ。
 
 ぼくの人生の中で最も印象深かったサンタからの贈り物、それは、君たち!

 MERRY CHRISTMAS !

 皆さん、よいクリスマスをお過ごしください。

サンタのお供は大変.JPG
posted by あっちゃマン at 21:00| Comment(5) | TrackBack(0) | コンセプト

2006年08月30日

働くということ


おじいさんと青い外套2.JPG

おじいさんと青い外套
紫玄ひつじ
定価 1,000円



ニートという言葉が広まりだしてから何年経っただろうか?
働きたくない、勉強したくない、と彼らは言う。
そもそも働くとはどういうことだろうか?
そもそも何のために働くのだろうか?
働いたら何が得られるのだろうか?

働くということはどういうことなのか、それを親たちがどう考え、どうとらえて、どうこなしているか、それは直接子供たちの“働く”ということに対する意識や概念を育てていくに違いないと思う。
まあしかし、こういうテーマは、考えてみようとするとなかなか難しくもあり、厄介でもあり、なかなか簡単には答えを導き出せるものでもない。

さて、残念ながら破産してしまった碧天舎だが、それをきっかけにぼくは多くの著者さんと出会い、話をする機会に恵まれた。
その中の一人が、紫玄ひつじさんだ。
話の流れで彼の本が読みたくなり一冊譲ってもらい、読ませていただいた。

昔かたぎの頑固な仕立て屋さんが、服を作るということに不変なポリシーを持ちながら、ひたすら高い技術の習得を追い求めようとする。
「服を縫ってあげるのではなく、縫わせていただくのだ」、なるほど。
「生地の声を聞く」、いい言葉だ。
客からの注文をそんな気持ちで仕事をする、それが仕事をするということの本質なのだ、というような思いがひしひしと伝わってくる。

設ける事が仕事?
もちろん赤字になってしまっては元も子もないが、「儲かればいい」だけではあまりに悲しいと思う。
しかし、そんな意識で仕事をしている人たちが世の中の大半を占めているのではないか?
そんな考え方の親に育てられた子供たちは、やっぱりそんな考え方を育んでしまうのではないか?

仕事とは何か?
優しさと厳しさとは?
伝統を継承するということとは?
ぼくは、この本を通して、改めて考えてみました。
良書です。
出版社が消滅したため一般書店での購入は困難ですが、希少な在庫はまだあります。
希望される方には、下記ホームページにアクセスをお願いします。

◆ ひつじさんのお昼寝
http://park23.wakwak.com/~hitsuji/
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2006年07月31日

碧天舎倒産における債権者会議 (その後の更新情報)


< 現在の状況。 平成19年2月7日 > 63904 

第三回碧天舎債権者集会

平成19年2月7日午後1時30分 東京地方裁判所(6階)622号法廷にて第三回債権者集会が行なわれました。
参加人数は30人強でしょうか。
上段に、裁判官
左席に、管財人(田川弁護士)・補佐2人
右席に、神田弁護士(山本社長の代理人)

山本社長は欠席。
「山本社長にはこの日の開催日時はを知らせてある」と、神田弁護士。
「ここ2〜3週間は連絡をとっていない」と、田川管財人。

参加者には、最終決算の記された財産目録、収支計算書が一枚づつ渡され、その説明が行なわれるという趣旨のものです。
その後質疑応答ですが、数人が質問をされましたが、もはや碧天舎の破産に関しては決定です。
最終決算は、債権者に対する配当はありません。

債権者集会は、碧天舎の破産に関するものなので、山本社長個人に対してどう責任追及するのかは、今後の債権者次第という感じのニュアンスを残し終了しました。

財産目録.JPG

収支計算書.JPG

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posted by あっちゃマン at 23:59| Comment(32) | TrackBack(4) | 碧天舎関連

2006年07月16日

熱中症  <子供たちの健康維持>

夏到来!

暑いですねえ。
ノドもからからになっちゃいます。
水をいっぱい飲みましょうって?!
ちょっとまった〜〜!

暑い日ってなんでノドが乾くんでしたっけ?
「汗がでるから」
「ピンポ〜ン!」
でも、水を飲んだら汗を補充できるのかな?
いや、水だけじゃだめなんです。
汗で排出されてしまう「塩分」の補給が、絶対的に必要なんです!

例えば、トンネル工事をする時には、常識的に水と塩を常備するんだそうですよ。
くそ暑いトンネル内では、大量の汗によって不足する塩分を補給するために、塩を舐めながら作業するんだそうです。

サウナも同じような環境なんですよ。
汗がたっぷり出るでしょ。
サウナに入ると気持ちはいいいけど、水分と塩分がからだから大量に抜けちゃう。
そうすると血液がどろどろになっちゃうわけです。どろどろになった血液は、もちろん血行障害をおこすことになり、時にそれは、脳梗塞なんてとんでもないことを起こす原因になっちゃったりするんです。

夏になると毎年必ず、「熱中症により死亡」って記事がニュースになります。
いろいろな医師たちがたくさんのアラートを出しているのにもかかわらず、熱中症やサウナで倒れちゃったりする人たちがいるってどういうこと?
学習能力なさすぎですよ。
少なくても自分の子供には、そんなことのないように気を配ってほしいものです。

じゃあどうすればいいのかな?
真水を飲むとノドの渇きは満たされますが、不足した体の中のミネラルは補給できません。
からだに必要なミネラルの中でも、特に「塩分」が過度に激減すると熱中症になっちゃうわけです。
そういう点では、水を飲むより、スポーツドリンクの方が適してますよ。
しかし、炎天下で過激なスポーツなどをしている場合などは、とめどもなく汗が出るので、塩分は、スポーツドリンクでも足らないくらい排出されてしまいます。
まじな話、塩をなめるくらいの意識が必要なんですよ。
そうそう、ラーメンのスープを全部飲んじゃうなんてのも、こと暑い夏には、効果的なんですね。
意外に寿司も塩分が多かったりします。特に回転寿司、普段食べていると塩分強くてノド乾いちゃいますからねぇ〜。
なんだかな〜・・・
まあ、いずれにしてもこれって夏に飛び回る子供たちにとって、最も重要な知識のひとつなので、ぜひ気をつけてやってください。

さて、その他にもいろいろな成分の摂取が必要であることは言うまでもありませんが、夏、ということを考えると、カリウムやマグネシウムも重要なミネラルです。

カリウム不足は、筋肉に疲労を与えるので、その結果、からだがだるくて動く気が減退する夏バテ状態の原因になるからです。

マグネシウムもからだにはとても重要なミネラル。
マグネシウムの含まれる食材は意外に少ないのですが、身近な食べものとしては、塩化マグネシウムをにがりとして使用している「豆腐」があります。
ちなみに、にがりを使用しない「豆乳」には、マグネシウムは入っていませんよ。

ところで、普段これらの成分補給に適しているのは、市販されている「海洋深層水」がなかなかお勧めできそうです。
海洋深層水は、ミネラルウォーターの中で唯一、「珪素」が含まれているという大きな特徴があります。
この「珪素」は、血液をさらさらにし、新陳代謝を促すという重要な役割をする成分なんです。
もちろん、マグネシウムやカリウムもたっぷり含まれています。
普段飲む場合においては、血圧の高い人、肩こりの人などにかなり効果的です。
ぼくの場合、飲んで帰って来たら必ず2〜3杯飲んでから寝ますが、新陳代謝が促進されているせいか、翌日の体調は極めて良好です。

なんだか海洋深層水の宣伝のようですが、実体験談です。

子供たちの健康状態、要チェックですよ!


大丈夫かなB.JPG
posted by あっちゃマン at 11:53| Comment(0) | TrackBack(3) | 健康・医学

2006年06月24日

楽しけりゃいいって、それだけじゃ何も生まれないよ  <試行錯誤>

「ここって楽しいよね〜」
「つぎ、どこいく〜?」
渋谷辺りに行くと街中にたむろする若者たちがたくさんいるよね。
そんな中には小学生もたくさんいるよねえ。
で、みんな思い思いの格好やお洒落をして、特に当てもなく都会を楽しんでいるね。
うんうん、人が多くて、刺激もあるし、そんな中にいると、あっという間に時間が流れるちゃうんだよね〜。

ところでさあ、「楽しい楽しいって」みんな言うけど「楽しけりゃいい」って、本当にそれだけでいいのかなああ?
もちろん、楽しいことはいいことだし、楽しいに越したことはないね。
でもね、君たち。
その時々が楽しければいいだけで生きちゃうと、いつまで経ってもレベルアップした人生を望めなくなってしまいますよ。
楽しさの中に「学び」があったり「努力」があったりしなければ、自分のためになにもならないんだよ。何の蓄積がなければ、「あの時はなんか楽しかった」だけの思い出にしかならないじゃない?
やっぱり、「あの時、いろいろなことを考えて、いろいろなことをトライしたから、今こんなことができるようになったんだよ」って言えるようでなければね。
それが、君たちにとっての進歩であって、向上ってことなんだよ。

都会のど真中で雑踏にまみれて、ただボーッと過ごすんじゃなくて、どうせ人間ウオッチングするんだから、ひとりひとりを観察して、いろいろなことを考えたり、イメージしたり、ファッションセンスを磨いたり、そういうことをするのだって勉強なんだよ。

努力があるから楽しいって思ってほしいなあ。
時間つぶしの遊びくらい無駄なものはないって考えてほしいなあ。それが、得るもののある遊びになるということだとだよ。
そういう考え方をいつも持っていること、そして、そのためにいつも試行錯誤してほしいなあ。

それがこれから大人になる君たちに望むこと。
posted by あっちゃマン at 19:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 考える・学ぶ

2006年06月11日

人の話に耳を傾ける  <学びへの姿勢>

今時の子供たちは、「人の話を聞く」あるいは「人の話を聞こう」という姿勢がしっかり身についていない子が多いことに驚きます。
でも塾の先生の話しはよく聞くんだよね。
つまりそれって、話を聞いておけば得をしそうな相手であったり、敵わなそうだと思う相手や認めている相手からの話には耳を傾けるってことでしょ。
例えば塾の先生や習い事でも厳しい先生などがそれ。
それ以外はどうでもいい。
それ以外は半分バカにしちゃっているということもある。
これは大変な問題ですよ。
どうしてそんなことになってしまうのだろうか?
ひとつには、そもそも親自身がそういう考え方や姿勢だったりすることがひとつの原因です。あるいは、子供たちのそういう姿勢を放っておく子育方法も問題を助長してしまっていると言えますよ。

「話をまったく聞かない子供たち、前で何か話してる人がいるのにその事に注目しないで遊んでる。また、話しをしてる子供達どうしたら、子供達を話をしてる人に注目させて話を聞いてくれるようになるのでしょうか?
もう一つ、自分が子供達になめられてるのかな?って思ってしまう事もあるんですが、いけない事をして注意してもへらへらしながら聞いてる子供達こっちは真剣に子供と真正面で向き合って話してるんですが。どうすればいいのかな・・・・」
今時は、こんな悩みを持っている先生がたくさんいます。
先生も本当に大変です。

人の話に耳を傾けない、あるいは集中力の低下という問題に関しては、親の人生に対する姿勢もさることながら、テレビの影響が相当あるとぼくは思いますよ。
テレビ番組のスタイルそのまま、それらを参考にしたり真似したりしながら子供たちが育っている。いや、親たちもしかり。
人をバカにしたり、笑いの的にしたり、無視したり、度を超えたいたずらや騙し、嫌がらせをしたり、そんな番組ばかりがもてはやされている。
これを親子で楽しんでいる。
これで子供が健全に育つだろうか?
「考える」ということを疎かにし、「ただ面白ければいい」というスタイルの馬鹿げた番組ばかりを見て過ごす毎日。考えていないのだから集中力が低下するのは当然ですよ。
また、面白さばかりが優先されたコンセプトを培ってしまう生活なのだから、面白くないことなど聞く気になれない。当然の結果だよね。
そういう意味では学校は面白いはずはない。だから集中できない。でも塾という競争社会の中では「負けられない」という競争意識が刺激されるから集中せざるを得ない。
もっとも問題なのは、親が子供たちのそういった生活習慣を黙認したり、一緒になってレベルの低い生活を繰り返していること。

どうすればいいのかな?
ひとつには、子供たちに「話を聞こう」という以前に「興味を持とう」という姿勢を身につけさせることが大切だろうな。
面白いか面白くないかということは、ものごとを探究するためにはもちろん大切なコンセプトなんだけれども、同じ「面白さ」でも、馬鹿げているか有意義か、という点では大きな違いがありますねぇ。
「ただ面白ければいい」なんて考え方は実に愚かですよ。
「ただ有意義であればいい」と考えるべきだとぼくは思いますよ。

そのためには、まずは親が、いろいろなことに興味を抱いて、考えたり、探ったり、試したりしようと子供たちと共にしなくちゃねぇ。
親自身がそういうことを面倒くさがって、なんでもかんでも第三者、つまりは、お金を払っていろいろな先生に子供の教育をお願いしちゃうという、いわゆる第三者教育依存という教育方法を考え直さなければならないと思いますよ。
どうやってみてもやっぱり子供たちは、親の考え方や姿勢によってその人生を導かれ育んでいくのですから。

もうちょっと考えて見ましょうね。
posted by あっちゃマン at 18:01| Comment(1) | TrackBack(0) | 考える・学ぶ

2006年06月05日

アスレチック  <ある思い出>

「むか〜しアスレチックいったじゃん」と長女。
「うん。どうしたの急に?」
「なんか思い出した」
「あん時、池に落ちたね。それにしても、どこ行ってもよく水の中に落ちるよな」
「あはは、うんうん、てか、そうじゃなくて、なんか穴の中くるくるまわって走って上がってくるやつあったよね。あれ思い出したんだよ」長女が笑う。
「ああ、あれはパパも結構面白いと思ったよ。というか、不思議だよね」
「うん、不思議。勝手に登ってちゃうんだよね」
「遠心力っていうんだけど、走るスピードが速くなれば速くなるほど、遠心力がついてひろがるから、登れちゃうんだよな。理屈はわかるけど、やっぱなんか不思議だね」
「そうそう」
「でもマーはさあ、走るの遅くてずるずる落っこちてたじゃん」
「そうだったね」
「だって登れなかったんだよ」とロープで引っ張り上げられた次女。
「もう一回やりたいね〜」
「そうだな」

思い出といえば、実に思いで深い「遊び」というものがあるものだ。
ぼくの娘たちにとっては、今はなき狭山にあったアスレチックの中のアトラクションのひとつがそれ。
小学校3〜4年生の頃の話。
彼女たちは鮮明にこと細かく記憶していた。

直径20メートルくらい、深さ5メートルくらいの“すり鉢状の穴”が開いている。
まずは下まですべり落ち、下から一気に回るように走ってみるという単純なアスレチックだ。
するとあら不思議。
走れば走るほど遠心力がついて、どんどんすり鉢上の斜めの面を上に向かって上がってきちゃうのだ。
途中でスピードをゆるめると遠心力が弱まって、底に逆戻りしちゃうというユニークなアトラクションだった。
これは面白かった。
あまりに面白いので、そればかりやっていたのを思い出す。

当時年令の低い次女にとってはなかなかハードだった。
それでも一生懸命トライしようとする次女。
結局ロープで引っ張り上げてもらったのだった。まあ、それはそれで彼女の努力の結果。
しかし、次女がいまだに結構悔しさを引きずっているのがいいね。
雪辱戦をしたいらしい。

努力があるから楽しい。
努力があるから印象が残る。
なぜこういう結果になるのか、考えるようなものだから勉強になる。
考えるようなものだから印象に残る。
考えたり、感じたり、味わったりできるから進歩する。
それがいつしか、大切な思い出と化す。
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2006年06月04日

思い出をつくるということ  <思い出の意味>

「なんか思いでづくりしたいね〜」
「どっか行きたいね〜。思い出になるわよね〜」なんて、母親たち。
いや母親たちに限らず、友達同士でもこんな言い方をよくしますね。
で、実はぼく、この「思い出をつくる」という言い方が嫌いなんです。
なんで、わざわざ思い出を作ろうとするのかな?
『なんか下らなねぇ〜』と、ぼくは思っちゃう。

ぼくは子供たちと何か思い出を作ろうと思ったことがないんですよ。でも、たくさんの思い出がある。
そう、そういう意識がないのに、たくさんの思い出ができちゃう、ここが肝心。

思い出を作りたいと願う背景には、印象に残る思い出がないという現実があるんじゃないかな?
だから、印象に残る出来事をつくりたい。
それはよく分かります。が、そもそも意識的に“印象に残る思い出をつくる”ということをしなくても、日々培う一コマ一コマとじっくり向き合い、見つめ、考え、行動していくと、それはとてもインパクトのある思い出になっちゃうんですよ。

じゃあ、インパクトのない出来事ってなんだろうか?
それは、無意識に、だらだらと、コンセプトもなく、考えるということをせず、いつしか過ぎていく時間、それがインパクトのない出来事なんじゃない?

「遊び=学び」であるべきだとぼくは考えていますけど、それも「遊び=ひまつぶし」であってはインパクトのない出来事になってしまうから、そうあってはならないと思うからです。

「食」も同じです。
ただお腹が一杯になればいいというようなとらえ方ではなく、食を味わい、考え、感想を持ち、あるいは食から何かを得ようとするという姿勢があれば、びっくりするくらい深く印象や記憶に残ります。

「お兄ちゃんにチューペットもらったよねぇ〜」
「うんうん、半分ずつに分けたよね」
「何の話だ、そりゃ?」
「アヒルのいた川行ったじゃん」
鹿児島は花瀬という岩盤の上を流れる川に遊びに行ったことがある。
子供たちは、まだ4〜5才の頃だ。
せっかく景色のいい場所に行ったにも関わらず、子供たちの記憶に残っているのは、子供たちの持っていたポテチを狙った凶暴なアヒルの話、ガソリンスタンドでもらったチューペットの話だった。

「思い出をつくろう」という意識が、ぼくは好きではない。
大切なことは「思い出をつくろう」とすることではないからだ。
大切なことは、子供たちと充実した時間を過ごそうとすることだ。つまりは、子供たちと向き合い、共にいろいろなことをじっくり考え合い、感じ合い、セッションをし合うということこそが大切だとぼくは考えているからだ。
そうすれば、必然的に思い出はたくさんできるのだから。
posted by あっちゃマン at 02:54| Comment(0) | TrackBack(0) | コンセプト

2006年05月28日

子供の育て方が分らない  <情報錯綜のはてに>

「子供の育て方が分らない」
今、多くの親たちが悩んでいますねぇ。
でもね、よくよく考えて見ると、いつの時代においても子供の育て方が分っている親なんてそうはいないですよ。
それじゃあなぜ、今になってそういう悩みを抱えた親が激増しているのかな?

ひとつの問題は、“母親主体の子育て”なんですよ。
いや母親主体というより、“母親一人での子育て”と言う方が正確かな?
でも、決してこれは、母親が悪者というわけではないので勘違いしないでください。

昔の日本は一つ屋根の下に、おじいちゃんやおばあちゃんも一緒に住んでいて、親を含めて4人で子供を育てていたりしましたよね。
時に、おじいちゃんおばあちゃんを頼りにし、時に、うるさいくらいに子育てに関わってきたりし、子供たちも子供たちの都合で、おじいちゃんおばあちゃんについたり、親についたり、要領も子供の知恵、そうやって子供たちは成長していたわけです。
いや子供だけでなく、家族そのものが、そうやって成長できたわけです。
しかし今はどうか?
父親は仕事で家にいない。
もっぱら家には、母親と子供だけ。
母親主体の子育ての問題点は、子供を育てるには、あまりに大人たちの人数が少なすぎるという点。
大人の人数が少ないって?
そう、大人の人数が少なすぎる。
母親にとっても子供にとっても、関わる大人が少なすぎる。
おじいちゃんおばあちゃんと済んでいた頃には、1人の子供を4人で育てているんですよ。
子供たちは4人の知恵を学ぶことができる。
家族には4人からの情報が行き来するわけだから、知恵、ノウハウ、発案、考え方、そして選択技も4倍になります。
父親や母親も子育ての知恵を得られ選択技も広がるし、周りの大人たちの支えがあるから勇気も出る。
何より皆がそれぞれ心強い。これがもっとも肝心なことなんだね。

ところが母親と子供だけでは、母親自身にとって心の支えがない、頼れる人がそばにいない、選択技がない、それゆえ母親が一人で孤軍奮闘しながら考え行動しなければならない。その結果、子育てを行う主軸である肝心の母親に莫大な不安要素が圧し掛かってしまうわけです。
当然、母親に大変なストレスが生じるわけで、大量なフラストレーションが溜まっちゃう。その矛先は、旦那さんや子供に向けられる。旦那さんはともかく子供はたまったものではない。
こんな、悪循環を起こしちゃうわけです。

もうひとつは、そういう母親たちのコミュニケーションの中で独断と偏見に満ちた情報交換をすることが問題をややこしくしている。
これも母親が悪いわけでは決してないんですが・・・

問題は情報に翻弄されてしまうこと。
世の中の子育て関連情報は、今や一大産業です。
良くも悪くも、母親を惑わす膨大な子育て情報が氾濫しています。
膨大な情報が安直に飛び交い、錯綜している現社会の中で、何が優良な情報なのか、何が適した情報なのか、あるいは子供たちにとって将来性のある情報なのか、どうやって判断するかがまた難しい。
いつしか、母親たち独特の比較意識などの中にも巻き込まれてしまったりもする。
不安にかられたり、迷わされる要因は無尽蔵にある。
いずれにしても、いろいろなお母さん方が集まって、それぞれに持ち寄った情報交換は、あくまでも情報であって、自分たちに適した情報かどうかをしっかり熟考し見極めなければなりません。安直に信じ込んだり、従ったり流されたりしてはだめなんです。
「気にするな!」と叱咤激励してくれる第三者がいれば何のこともないのに、そういう人物がいないために不安にかられ、多くの情報に右往左往してしまうというのが正直なところでしょ?

右往左往する母親たちに、子供たちもだんだん母親から距離を置くようになる。いつしか友達からの情報で考えたり行動したりしようとするようになる。そうするとますます母親と子供の距離が開いてしまう。
父親は観客席にいながら、うたた寝しているようなものだから、そんな状態に気づきもしない。
気がついた時は、「いったいどうすればいいのか」状態。

ぼくは、子育てなんて超簡単だと思っていますよ。
「0才からの親子のセッション」とは、子供たちとの日々の一コマ一コマにおいて、父親と母親と子供たちが、いちいち考え合って、相談し合っていくことが大切なんだというコンセプトです。
次の段階ステップアップするにしても同じように考え合って、相談し合って、決めていく、そうやって決めたことは、誰に何を言われようが継続する努力をする、そうしたらおのずと道のりが見えてくるものなんですよ。
一歩一歩着実に親子で歩めばいい。それが自然体でナチュラルな子育てをするということ。
子育ては、たったそれだけのこと。

一般論なんて気にすることはない。
自分たちは自分たちのオリジナルな人生があるんです。
子供たちとの日々の一コマ一コマをしっかり考えながらみつめていけば、子供たちに適していることもおのずと見えてきますよ。
結局、「分らない」という理由で問題をついつい放置しちゃうことが、子育てをさらに分らなくしている一番の原因なんです。

子供を育てる絶対人数が少ない以上、父親と母親と子供たちの三者がしっかりコミュニケーションをとって、三者で考え合い、相談し合い、協力し合い、発想し合い、創造し合う、支えあう、励ましあう、叱咤激励し合う、それが一番大切なこと。
特に大切だと考えるのは、「父親」が子育てにガンガン関わるということ。
「父親」の男親としての存在、一言、後押し、協力、客観的な意見、支えなどが母親にも子供にも重要な役割を成すからですよ。

ところで、まじめであることは大切ですが、でも、子供たちの個性を育てるには、できる限りユニークだったり面白おかしくあったりすべきだと思います。
笑いを忘れてはだめですよ。
posted by あっちゃマン at 14:46| Comment(3) | TrackBack(0) | セッション

2006年05月27日

昔はあんなに遊んだのに  <遊ぶということ>

「私たちは子供と、昔はいっぱい遊んだんですよ。でも今は、しゃべりもしない」
「いつから?」
「小学校四年生くらいからかなあ?」
「今は中学生ですよね」
「ええ、もう子供たちが何考えているのかぜんぜん分りません」

こんな話をよく耳にします。
結構これって多いパターンなんですが・・・
なんで、子供たちとたくさん遊んだのに、いつしか話もしなくなってしまうんでしょうね?

今時の親たちはやけに遊ぶのが好き。
子育てサークルやブログなどを除いてみると、「親と子供のイベント」、「親子で一緒に遊ぼう」などというものがたくさんありますねえ。
ぼくたちもそうだったけれど、子供が幼稚園くらい時には、他の家族とどこかに食べに行ったり遊園地に行ったりしましたよ。
でも、いつしかそういうのもフェードアウトし、親は親、子供は子供みたいに離れて行くようになる。
気がつけば、子供との交流どころか、意志の疎通さえもできなくなっているなんてことに・・・
子供たちとあんなに遊んだのになんでそうなるの?

例えば「親と子のイベント」って、親たちの交流、親と子供の交流が目的ですよね。
一緒にバーベキューやろうよ、遊園地行こうよ、みたいなイベントを組んで、イベントの後には「楽しかったね〜」「また行こうね〜」などと親たちは満足げ。
これはこれでいいけれども、でもね、「親たちが楽しむということ=子供も楽しい」ということになるかどうか、というところが肝心なんですよ。
親が遊びたいだけ、親が楽しんでいるだけ、で、子供はそれにつき合ってるなんてだけだったとしたら、先は知れてますよ。
つまり、「遊び」をどうとらえるか、というとことが将来につながる大切なポイントなんですよ。

遊びをどうとらえるか。
これは、意識の問題です。
「遊び=楽しい」という意識と「遊び=学び」という意識には大きな違いがあります。
単に「遊び=楽しい」という観点の場合、楽しさの追求はエスカレートするばかり、同じようなことばかりでは、いつしか飽きちゃうんですよ。
子供にしてみれば「またか〜」みたいなことになる。

もし親が、「遊び=学び」というポリシーも持っていたら、遊ぶたびに親子共々成長したり進歩できる。「遊び」が双方にとっていい意味で刺激があり、意義もあり進歩もできる「時」であれば、親子の関係だっていつまでも充実したものになります。

そもそも、遊び好きな親たちがそういう意識に薄く「ただ楽しけりゃいい」みたいじゃ、子供だってだれるわさ。
子供たちは急速な勢いで成長するんですから、ある時、親の楽しみと子供たちの楽しみにギャップが出るのは当たり前。
いつしか、どんどん新しい時代に成長する子供たちが、それについていけない親と話さえする気が起きなくなるなんてことも考えてみれば当然の結果なんですね。
無気力、放任、何もしない親子たちと比べればはるかにいいじゃない、って?
そりゃそうだけど、自分たちより次元の低い人たちと自分たちを比べてどうするの?
posted by あっちゃマン at 16:59| Comment(4) | TrackBack(0) | セッション